かつて、遠い国の異国の地を訪れた時、偶然にも心温まる出会いが旅の中に待っていた。ジャカルタ、その喧騒と情緒溢れる街、ジャラン・ジャクサにて、私はある現地住民との出会いに恵まれた。彼女の名はAyu。この記事は、その時の思い出を辿りながら、彼女との交流を語りたい。
この記事は、随分昔の私の旅行体験を綴ったものである。そのため、情報の新鮮さに欠けるかもしれない。それでもなぜこの記事を書こうと思ったか、については記事の最後で述べたい。
ある3月上旬のこと
とある3月、私はインドネシア、ジャカルタに来ていた。予めホテルを予約することなく「ジャラン・ジャクサ」に行けば激安宿がある、という噂だけを頼りに、ジャラン・ジャクサを訪ねることにした。
寝泊りできさえすればよかったので、真っ先に目についた宿に決めた。料金は1日あたり約900円。簡素なベッドと、水しか出ないシャワー、まともに流れないトイレがついた最低スペックの部屋だ。それでも、充分な仕様だったし、旅情を掻き立てるには素晴らしかった。
パブの出会い
このゲストハウスでは同時にパブを経営していた。その夜、賑やかそうな外の喧騒に搔き立てられ、パブを訪ねてみた。
そこで出会ったのが、Ayuという現地インドネシア人女性。本人曰く30ちょっとだ、とのことだったが、見た目は50近くに見えた。この辺りに住み、働いている、とのことだったが、話を詳しく聞くにつれて、おそらく彼女がジャラン・ジャクサを拠点に性産業従事者として働いていることがわかった。おそらく、夜な夜なパブに出かけては、性に飢えた旅行客を捕まえに来ているのだろう。
私自身、性産業にはびた一文落とさない主義だが、気さくな彼女の人柄に興味を抱いた。彼女も暇つぶし相手を探していたようだったし、酒を囲みながらフランクにパブで語り合うことにした。
交流の深まり
次の夜もパブを訪ねると、Ayuはそこにいた。待ってたよ、と言わんばかりに私を呼び止めるAyu。どうやら、Ayuの中で、なぜかいつの間にか私がボーイフレンドという設定になっているようだ。やめてくれ。
とは言え、彼女のローカル遊女としての話は非常に面白く、その日もビールを片手に会話を楽しんだ。また、この日はやたらと羽振りの良い白人中年男性が、この場にいる全員分のビールをおごってやる!と宣言してくれたため、Ayuも私も昨日以上にカパカパとビールを頂いた。
その翌朝、二日酔いを抱えた私が朝食を食べにパブへやってくると、丁度Ayuもパブへとやってきた。パブでナシゴレンを食べている私を見て、もっとおいしい料理があるの知らないの?と揶揄するAyu。そういってAyuは向かいの屋台カーから何やら謎の現地料理を購入して持ってきた。一口味見をさせて頂いたが、かなり辛い。だが、いかにも現地ならではのスパイシーな風味という印象で、今私が食べている観光客向けの優しいナシゴレンとは対照的だった。
観光客向けの料理は高い上に美味しくないよ、と諭してくれるAyu。パブの店主を目の前に少しばつが悪いが、そんなAyuの厚意を嬉しく感じた。
また、この店では時折カラオケイベントを開催しており、ある夜は鍵盤奏者のおじさんが綺麗なインドネシア人地下シンガーを連れ、インドネシアポップ風演歌?らしき音楽を披露していた。現地では馴染みの曲なのか、ローカル客たちは大盛り上がり。私は当然全く聞いたことのない曲だったため、乗るに乗れず。
そんな中、歌いたい人は前に出てこい、と観客参加ステージが始まる。Ayuにそそのかされ、私も嫌々ステージヘ上がる。自動演奏カラオケマシーンには、数万曲ものレパートリーが登録されているが、当然日本の楽曲の登録は無い。仕方なく、Earth, Wind & FireのLet’s Grooveを指名し、渾身の歌声を披露する。恥ずかしさ半分、優しさからか結構盛り上がってくれるお客さん達のお陰で楽しくなり、意外と悪くないひと時を過ごせた。
そんな、ローカルとの交流もありながら、1週間ほどジャラン・ジャクサを拠点にジャカルタで過ごした。そんな中、最後の日を迎える。
別れと新たな絆
滞在の間、Ayuは私をボーイフレンド扱いし、毎日のようにパブに会いに来てくれた。その間、一度も私を彼女の「ビジネス」に誘おうとせず、純粋に友人(あるいはボーイフレンド)として優しく接してくれた。そんな中迎えた滞在最終日。Ayuに、今晩のタクシーで空港に向かうという旨を告げると、涙を浮かべながら寂しがってくれた。いつしか、私たちの間には友情が芽生えていた。
Ayuは、そんな君に大事なものをあげたい、と言い、特別にAyuの家へ招待してくれた。ホテルから歩いて2分ほどの距離にある、こじんまりとした1ルーム物件。部屋に着くや否や、ちょっと待ってて、とシャワーを浴びだすAyu。私はてっきり性的なプレゼントかと思い、丁重にお断りをしようかと考えたが、杞憂だったことが分かる。どうやら現地インドネシア人はただただ一日に何度もシャワーを浴びるのが好きらしい。
シャワーを終え、着替えて出てきたAyuは、部屋の本棚から一冊の古びた本を手に取り、私に差し伸べてくれた。
「これは、今は無き父親からもらったコーランだ」と告げるAyu。ぽかんとする私。Ayuは、いつの日か、興味本位で「コーランを読んでみたい」と言った私の発言を深く受け止めたらしく、そんな私にこともあろうか父親の遺品であるコーランを託そうというのだった。いやいや、こんな大切なものは受け取れない、と一度は断るも、いいから持って行って欲しい、と繰り返すAyu。
Ayuはアラビア語が読めない。だからアラビア語のコーランを持っていても意味がない。興味があると言ってくれたあなたに、持って帰っていつの日か読んで欲しい、と。あまりの真剣さに断ることができず、最終的にそのコーランを受け取ることにした。
Ayuに深い感謝の気持ちを告げ、そして別れを告げて、スカルノハッタ国際空港へと発った。
そして現在
あれから既に10年超。今はAyuがどこで何をしているのかはわからない。別れの際にメールアドレスを交換していたため、帰国後半年に1通ほどメールのやりとりをしていた。しかしその後、いつしかぱたりとメールの返信がなくなったのだった。
心配になったため、その7年後にジャカルタを訪ねた際に、あの思い出のパブの店主に、今Ayuは何をしているのか、と尋ねてみた。すると、Ayuは重病を患って病院へ緊急搬送されたっきりだよ、とのこと。
それからも、私は欠かさず毎年Ayuにメールを送り続けている。もしかしたら、いつか元気にメッセージが返ってくるかもしれない、と信じて。
最後に
実は10年前のジャカルタ旅行は、私にとって初めての海外一人旅だった。とある個人的なできごとから日本での暮らしが嫌になり、現実逃避のために無我夢中でジャカルタへ一人で訪ねたあの日、現地で私に対し優しく接してくれ、まだまだ知らない面白い世界があることを教えてくれたのはAyuだった。
彼女は友人というだけでなく、私にとっては一種の恩人のようなものである。もしかしたら既にこの世にいないかもしれないが、もし生きているのであれば、何らかの形でこのブログを発見し、あの時の少年がお陰様で元気に旅を続けていることを、誇りに感じて欲しい。
そして、その旅人のリュックの中には、いつもあの古びたコーランが入っているということを。
\この記事が気に入ったら是非クリックで応援してください!/