海外旅行における長時間のレイオーバー。空港内で退屈に過ごすか、それとも少しだけ外へ出て現地の空気を味わうか——多くの旅行者が一度は悩む選択だろう。
私は後者を選んだ。そしてその判断が、命の危険すら感じる恐怖体験へと繋がることになった。
今年8月、マニラ経由で中東へ向かう途中での出来事だ。たった1kmにも満たない距離のタクシー移動が、不当な高額料金を要求され、車内に監禁状態となり、最終的には強盗被害に遭う一歩手前まで追い込まれた。
この記事では、その一部始終を詳細に記録しておきたい。同じような被害に遭う人が一人でも減ることを願って。
6時間のレイオーバー、せっかくだから外へ

今年8月、私はマニラ経由で中東への旅程を組んでいた。ニノイ・アキノ国際空港でのレイオーバーは約6時間。中途半端な時間だが、空港内でずっと待つには長すぎる。
「せっかくだから、少し外に出て食事でもしようか」
旅の相方とそう話し、軽い気持ちで空港を出ることにした。目的地は空港からすぐのところにある「Newport City」。ショッピングモールやレストランが集まるエリアで、トランジット客にも人気のスポットだ。
スマートフォンの地図アプリで確認すると、空港からの距離は本当に目と鼻の先。直線距離にして1km未満といったところだろう。
「これなら歩いてもすぐじゃない?」
そう思ったのだが、実際に外へ出てみると話は違った。空港とNewport Cityの間には、交通量の非常に多い幹線道路が複雑に交差しており、歩行者が安全に渡れるような横断歩道はない。徒歩で行くとなると、大きく迂回する必要があり、灼熱の太陽の下を20分以上は歩かなければならないだろう。
「もう、さくっとタクシーで行っちゃおうか」
私たちは、その判断を下した。これが、全ての始まりだった。
Grabを使わなかった致命的な判断ミス
フィリピンでは「Grab」という配車アプリが主流だ。東南アジア版のUberのようなもので、事前に料金が確定し、ドライバーの評価も確認できる安全性の高いサービスである。
実際にGrabで検索してみると、空港からNewport Cityまでは約5分の道のり。料金は空港追加料金を含めても200円程度と表示された。
「200円か、安いもんだね」
しかし、ここで私たちは致命的な判断ミスを犯した。
Grabを使う場合、空港の指定された乗り場で待ち合わせをする必要がある。ドライバーを探し、合流し、確認し合う——そのプロセスが、暑さと疲れで面倒に感じられたのだ。
「流しのタクシーなら、すぐ乗れるし楽じゃない?」
目の前にはタクシーが何台も走っている。近距離だし、多少ぼったくられても大した金額にはならないだろう。そんな甘い考えが、私たちの判断を鈍らせた。
Newport City方面へ向かって歩き始めると、程なくして二人組の現地フィリピン人男性が近づいてきた。
「どこに行くの? Newport City? それならタクシーでワンメーターで行けるよ」
一人は普通の体格の中年男性、もう一人はやや筋肉質でガタイの良い若い兄ちゃんだった。彼らはフレンドリーな笑顔で、まるで親切心から声をかけてくれているように見えた。
「メーターもちゃんと付いてるから安心して。ぼったくりとかじゃないから」
その言葉に、私たちは安堵した。メーター付きのちゃんとしたタクシーなら、法外な料金を請求されることもないだろう。
「じゃあ、お願いします」
こうして私たちは、二人組が案内するタクシーの後部座席に乗り込んだ。ドライバーを務めたのは、普通の体格の中年男性の方だった。ガタイの良い兄ちゃんは、私たちをタクシーに乗せると、早々に立ち去った。
車内は思ったより清潔で、メーターも確かに設置されていた。そして、ドライバーが普通の体格の中年男性だったことに、私はどこか安堵していた。もしあのガタイの良い兄ちゃんがドライバーだったら、もっと警戒していただろう。
しかしこの安心感こそが、油断を生んだのかもしれない。
これが大失敗だったと気づくのは、わずか5分後のことである。
相場の40倍!8000円という狂気の請求
タクシーは順調に走り出した。道は少々混んでいたが、距離が短いため5分もかからずにNewport Cityのエリアに到着した。
「はい、着いたよ」
ドライバーが振り返り、にこやかに言った。そしてメーターを指差す。
私はメーターに目をやった。そして、目を疑った。
3,000ペソ超。日本円にして約8,000円。
一瞬、桁を見間違えたのかと思った。しかし何度見直しても、メーターは確かに3,000ペソ以上を示している。
1kmにも満たない距離で、8,000円。
「ちょっと待って、これおかしいだろ」
私は思わず声を上げた。しかしドライバーは、まるで何も問題ないかのような顔で言った。
「メーターの示す通りだよ。ほら、見てごらん」
「いや、おかしいって。たった1kmも走ってないのにこんな金額ありえない」
「空港料金が含まれてるんだよ。それに渋滞もあったし」
彼の説明は支離滅裂だった。空港料金を含めても、Grabで200円と表示されていた距離だ。どう計算しても8,000円になるはずがない。
「これは明らかにぼったくりだ。払えない」
私がはっきりと拒否すると、ドライバーの態度が変わった。笑顔が消え、やや強い口調で言った。
「メーターに従うのがルールだ。お前がどう思おうと、これが料金だ」
車内での攻防戦
私は冷静さを保とうとしたが、心臓は激しく打っていた。ここは外国。言葉も文化も違う。そして今、私たちは密室である車内に閉じ込められている。
幸いなことに、ドライバーは普通の体格の中年男性だった。もしあのガタイの良い兄ちゃんがドライバーだったら、ここまで強気に出られなかっただろう。物理的な威圧感が全く違っただろうし、暴力に訴えられたら抵抗できなかったかもしれない。
その意味では、不幸中の幸いだった。だからこそ、私は強気の姿勢を崩さないことにした。
「1km程度でこんな金額、常識的にありえないだろ。Grabなら200円だった」
私は可能な限り論理的に反論しようとした。しかしドライバーは鼻で笑った。
「これはGrabじゃないからさ。流しのタクシーは違うんだよ」
「じゃあ、いくらが妥当だと言うんだ?」
「メーターの通りさ。8,000円」
会話は完全に平行線だった。ドライバーは一歩も譲らず、私たちがいくら抗議しても「メーターが全て」の一点張りだった。
そして、さらに悪い事態が発覚した。
「クレジットカードで払うって言ってたよね? 最初に」
私は乗車前の会話を思い出して言った。確かに彼らは「カード払いもOK」と言っていたはずだ。しかし、車内にはカード決済用の端末は見当たらない。
「ああ、それは無理だ。現金のみ」
「え? さっきと話が違うじゃないか」
「そこにATMがあるだろ? 下ろしてきなよ」
ドライバーは平然と、近くのATMを指差した。
冗談じゃない。私たちはただの短時間トランジット中で、ちょっと食事をするためだけに来ている。大量のフィリピンペソを引き出す必要などないし、そもそも8,000円など払うつもりはない。
「ATMには行かない。それに、この金額は払えない」
私が拒否すると、ドライバーは冷たく言い放った。
「じゃあ、空港に引き返そうか」
絶体絶命からの脱出
空港に引き返す——つまり、このままNewport Cityでは下車させてもらえず、引き続き車内に監禁し続けるということだろうか。もしかしたら、このまま別の場所に連れて行かれるかもしれない。財布を奪われるかもしれない。それ以上の危害を加えられるかもしれない。
そして最悪なのは、仲間と合流されることだ。もし屈強な男たちが車内に入ってきたら、物理的に抵抗することは不可能になる。
私の頭の中で、様々な最悪のシナリオが駆け巡った。
しかし、ここで怯んではいけない。弱みを見せたら、さらに付け込まれる。
私は深呼吸をして、できるだけ強気の態度で言った。
「ああ、いいよ。空港に引き返せよ。その代わり、それならこっちはびた一文払わないからな」
ドライバーが怪訝な顔をした。
「お前らはサービスを提供していない。約束した場所に連れて行って、約束した支払い方法も守らず、法外な料金を請求している。これはサービスじゃない。詐欺だ」
私はフィリピンペソを持っていなかったが、財布の中には千円札が数枚あった。
「この1,000円を受け取ってさっさと俺たちを降ろすか、それとも空港に引き返してびた一文受け取らないか。どっちか選べ」
千円札を彼の目の前に突き出した。
ドライバーは明らかに動揺していた。彼は携帯電話を取り出し、おそらく最初に声をかけてきたあのガタイの良い兄ちゃんに電話をかけた。フィリピン語で何やら相談している。
その瞬間、私の心臓は激しく打った。もしあの兄ちゃんが「今からそこに行く」と言ったらどうしよう。そうなったら、本当に危険な事態になる。
電話は数分続いた。私は相方と目を合わせ、いつでも車外に飛び出せるように身構えた。
そして、ドライバーは渋々といった表情で言った。
「......わかった。1,000円でいい。降りろ」
私は千円札を彼に渡し、急いで車外に出た。相方も続いて降りた。
車は荒々しくエンジンを吹かし、去って行った。私たちは無事にNewport Cityの路地に立っていた。

後から知った恐ろしい真実
事なきを得た——その時はそう思った。相場に対し1,000円は確かにぼったくりだが、本来200円で行ける距離だから800円の損失だ。8,000円の出費よりは遥かにマシだろう。まあ、勉強代と思えば安いものだ。
しかし、帰国後にフィリピン、特にマニラの治安情報を調べてみて、私は背筋が凍る思いをした。
マニラでは日本人を標的にした強盗・監禁事件が多発している。
外務省の海外安全情報にも、明確に警告が記載されていた。特にタクシーを使った犯罪が多く、流しのタクシーに乗った日本人観光客が、人気のない場所に連れて行かれ、金品を奪われる事件が後を絶たないという。
中には、ATMで現金を引き出させられたり、クレジットカードの暗証番号を聞き出されたりするケースもある。最悪の場合、暴力を伴う強盗事件に発展することもあるという。
私たちが遭遇したドライバーも、もしかしたらそういった犯罪グループの一員だったのかもしれない。車内で強気に出たことが、結果的に最悪の事態を回避することに繋がったのかもしれないが、一歩間違えれば逆に危険だった可能性もある。
そして何より、もしあのガタイの良い兄ちゃんがドライバーだったら、あるいは電話で呼び出されて合流していたら、我々は完全に抵抗できなかっただろう。
おわりに
この記事を読んで「フィリピン旅行は怖い」と思った人もいるかもしれない。
確かに今回は怖い思いをした。しかし、犯罪多きフィリピンと言えど、99%の人は善良で、親切だ。たまたま運悪く(あるいは我々の油断のせいで必然的に)、残り1%の悪意ある人々に遭遇してしまっただけだ。
大切なのは、適切な知識と警戒心を持って旅をすることだ。
- 渡航先の情報を事前に調べる
- 現地の詐欺手口を知っておく
- 安全な交通手段を選ぶ
- トラブル時の対処法を準備しておく
これらを怠らなければ、フィリピン旅行は依然として素晴らしい経験になるはずだ。
最後に、もしあなたがこれからマニラを経由する予定があるなら、くれぐれも気をつけて、Grabを使っていただきたい。流しのタクシーには決して乗らないでいただきたい。
そして特に、空港付近で怪しい男性に声をかけられた場合は、絶対に応じないでいただきたい。危険なマニラの中でも、とりわけ空港は詐欺師たちの魔窟なのだから。