
馬祖・北竿島への旅といえば、「藍眼淚」(青い涙)と呼ばれる夜光虫の幻想的な光景や、戦地トンネル、芹壁の石造りの家々が有名だ。しかし、私が2025年の冬に訪れた時、最も心に残ったのは観光ガイドブックにはほとんど載っていない「得天泉」公衆浴場だった。
冬の訪問だったため残念ながら藍眼淚のシーズンではなかったが、代わりに馬祖の深い歴史と人々の生活に触れることができた。
「得天泉」とは

得天泉浴室は北竿郷塘岐街に位置する、馬祖四郷五島で唯一現存する民営公衆浴場だ。ネットでの情報によると、1960年代に開業し、最盛期には27の浴室を持つ施設として、水の確保が困難だった時代の兵士たちにとってのオアシスだったという。
当時、山頂や海岸の前線拠点では水の入手が極めて困難で、兵士たちは雨水を集めたり、自ら山を下りて水を汲んで運んでいた。往復30分から1時間以上かかることもざらだったそうだ。だから冬の休日、兵士たちは街の民営浴場で熱い風呂に入ることを何よりも楽しみにしていた。
冷水3元、温水5元という料金で始まり、1986年からは冷水30元、温水50元に値上げされたが、それでも変わらず兵士たちの憩いの場だったという。
全盛期には北竿だけで十数軒あった民営浴場だが、軍の削減と各部隊への給湯設備設置により次々と廃業。今では得天泉だけが残っている。
店先の日常風景
塘岐街を歩いていると、赤い看板の「得天泉」が目に入った。看板には「得天泉浴 煙酒雑貨」の文字。店の前には檳榔(ビンロウ)の札がかかっており、飲み物とビンロウを売っている模様だ。

私が訪れた時、店の玄関あたりでは近所のおじさんたち数名が陣取り、檳榔片手に酒盛りをしていた。ビールケースを椅子代わりにして、午後の太陽の下で談笑している。離島の穏やかな日常がそこにあった。
店主かと思い「見学させてもらえますか?」と尋ねると、「俺たちゃ客だから分からん。店の奥さんに聞いてくれ」との返答。どうやらただの常連客だったらしい。この、地域の溜まり場のような雰囲気こそが、得天泉の今の姿なのかもしれない。
生活空間と化した浴場への潜入

おじさんたちに促され、店舗部分を抜けて家の厨房のような空間へ。奥に進むと女性がいたので、改めて見学の許可を求めた。「いいよ」と一言。特に説明もなく、そこからは一人で自由に見学させてもらえることになった。
時間が止まり、そして再び動き出した空間
中に入った瞬間、目の前に広がったのは「博物館」と「商店」、そして「生活空間」が混在した光景だった。

コンクリートの壁に囲まれた浴室が番号順に並んでいる。17番、19番などといった赤い数字が壁に書かれている。中央の通路を挟んで両側に浴室が並ぶ構造だが、通路には洗濯機、段ボール箱、日用品、国農牛乳の箱、ビニール袋に入った衣類...生活の痕跡が溢れている。

天井からは蛍光灯がぶら下がり、配管がむき出しで走っている。壁の塗装は剥がれ、コンクリートの素地が露出している箇所も多い。湿気と時間が作り出した独特の空気感。これは間違いなく「現役の生活空間」だ。
レトロな浴室
ほとんどの浴室は物置として使われていた。

ある浴室には大量の段ボール箱。ある浴室には椅子や家電製品。またある浴室には雑貨が山積みになっている。扉を外した浴室もあれば、花柄のビニールカーテンで目隠しされた浴室もある。
しかし、そんな中でも昔ながらのモザイクタイルの浴槽は健在だった。

淡い青緑色のタイル、白とブルーのチェック柄のモザイク。浴槽の縁はタイルで丁寧に仕上げられ、浴槽内部には水色と白のモザイクが幾何学模様を描いている。床には小石を敷き詰めた滑り止め。
1960年代当時、これは確かに「豪華」な設備だったはずだ。
そして、最も驚いたのは一部の浴室の状態だった。

まるでつい昨日まで使われていたような浴室がいくつか存在していたのだ。
シャンプー、ボディソープ、洗顔料がびっしりと並んでいる。
ある浴室には緑とピンクのバスタオルが無造作に掛けられ、浴槽の縁には各種シャンプーボトルが10本以上並んでいる。別の浴室では浴槽内に青いバケツと洗面器が置かれたまま。
これはもう博物館でも観光施設でもない。家族の誰かが今も日常的に使っている私的な浴室なのだろうか。

通路を歩いていると、生活の匂いがする。洗剤の香り、微かな湿気、そして時間の重み。ここは「保存された過去」ではなく、「過去を内包した現在」なのだ。
一方で、今や完全に使われなくなったとみられる浴槽が多数派を占める。

ある浴室では、浴槽の上に古い蓋が敷かれ、そこには大量のビールケース。「Bar BEER」というブランドのビールが何十ケースも積み上げられている。これは明らかに店舗用の在庫だ。
また一部の浴室には、かつてボイラーだったと思われる設備の痕跡も残っている。木材で湯を沸かしていた時代から、ボイラーへの移行。その変遷が物理的に残されている。
意外な人気:若者が訪れる「廃墟的スポット」
ネット上の情報を調べていて興味深い事実を知った。得天泉は近年、台湾の若者の間で密かな人気スポットになっているという。
InstagramやFacebookで「得天泉」を検索すると、意外なほど多くの投稿が見つかる。特に廃墟探索や昭和レトロ好きの若者たちが訪れているらしい。
このモザイクタイルの質感、剥がれた壁、番号が書かれた浴室の並び...全てが写真映えする要素を持っている。ただし、それは「きれいな廃墟」ではなく「生活が続く歴史的空間」という点で特別なのだが。
台湾の若者の間では、戦地時代の遺構を訪ねる「軍事遺産観光」がちょっとしたブームになっているとも聞く。金門島や馬祖は、そういった意味で非常に貴重な場所なのだろう。
ただし、訪問者は忘れてはいけない。ここは観光施設ではなく、今も人が暮らす生活空間の一部なのだということを。家族で営んできた浴室を後世に残すため、という思いのもと店主の厚意で現在も見学用に開放してくれているようではあるが、あくまで居住空間にお邪魔させていただくという意識を持ち、見学の際には一声掛けるのが望ましいだろう。
まとめ
モザイクタイルの浴槽、コンクリートの壁、生活用品が積み上げられた通路、そして今も使われているであろうシャンプーボトル。それらが織りなすのは、「保存された過去」ではなく「過去と現在が同居する生きた空間」だ。
台湾本島から飛行機でわずか50分の離島に、こんな場所が佇んでいる。店先では今日も常連客たちが檳榔片手に酒を飲み、家族が洗濯機を回し、ビールの在庫が運び込まれる。
ここは生きている歴史なのだ。
馬祖を訪れる機会があれば、ぜひ塘岐街の「得天泉」に立ち寄ってほしい。そこには、ガイドブックが教えてくれない、本当の馬祖が待っている。