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実写「リトル・マーメイド」を実際に観て感じた、配役に関する違和感を言語化してみた。 #リトルマーメイド #アリエル

最初に断っておくと、本記事は映画のネタバレを含む内容となるので、まだ観ていない方は以下閲覧注意。

 

実写「リトル・マーメイド」を観てきた。とても心踊る作品だった。

※写真はイメージです

子供の頃より親しんできたリトル・マーメイド。既におおよその展開を知っているはずにもかかわらず、手に汗握るようなドラマティックなストーリー運び、綺麗で幻想的でダイナミックな海中の景色、そして何より主演のハリー・ベイリー含め、キャストが魅せる繊細な表情が味わい深く、思わず感情移入をしてしまうあっという間の140分だった。

しかし、本記事ではそういった感想文ではなく、作品を通して私自身が感じてしまった配役に関する違和感について筆を走らせたい。

リトル・マーメイドの映画実写化は多くの物議を呼んできたが、その中でも「黒人(アフリカンアメリカン)の女優がアリエルを演じるのはおかしい」という意見は、映画を既に観た人・まだ観ていない人の両方から、多く見受けられていることは明白だろう。ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス=差別や偏見を含まない中立的表現)が注目される現代において、黒人女優がアリエル役を担うことに対するネガティブコメントは、いかにも旧時代的であると感じる方もいるかもしれない(また中には悪意をもって差別的なコメントをしている発言者もいるかもしれない)。とは言え、そういった発言者に対し一律的に「あなたの発言は人種差別的だ」と決めつけるのはひょっとすると短絡的ではないだろうか。

というのも、私自身実際に映画を観て、実写「リトル・マーメイド」の配役に関する違和感を強く覚えたからだ。

本記事では、実際に私が映画を観て感じた違和感について、なるべく公平に整理をして言語化していきたい。これにより同様にリトル・マーメイドの配役について違和感を抱いた視聴者の心の中のモヤモヤを解決することを手伝うとともに、ネガティブコメントに対して短絡的に差別主義者のレッテルを貼る方々へ、再考の余地を与えることができれば幸いである。

繰り返しとなるが、私自身映画そのものについては心から楽しみ、心底満足し、キャストの方々の迫真の演技にも感服をした。決して作品やキャストに対して批判的な意見を述べたいという意図はないということを、事前に断っておきたい。また、私は元来映画評論家でも無ければ、熱狂的なディズニーファンというわけでもない。それ故、コアファンの方々からすると「浅い意見」として捉えられるであろうことは承知の上、だからこその公平な視点によって、一般視聴者による一つの意見を提示することができると考え、急遽執筆させていただく事とした。

 

違和感その①:アリエルは原作でも白人なのか

※写真はイメージです

まず、既に多くの方が提起しているであろう、この問いについて意見を整理したい。「アリエルは本来は白人である。なぜならオリジナルのリトル・マーメイド(1989)では白人として描かれているからだ。それを白人でない役者が演じるのは世界観を壊すことに繋がる」という主張は正しいのか、という問いだ。

正直なところ筆者自身の感覚としては、アフリカンアメリカンの女優がアリエル役を演じることについては、全く違和感を感じなかった

オリジナルのリトル・マーメイドに登場するアリエルは、確かに白人風な顔立ちをしている。だが、作品を通して「アリエルは白人だ」などと定義づけるような説明は一度もない。実際に制作者が意図的にアリエルを白人らしい見た目で描いたのかもしれないが、そこにどの程度強い必然性があったのか、今となっては確かめようがない。ひょっとすると、アリエルが白人らしく見えるのは、既に我々の目がある種のバイアスを帯びているからである、という線も捨てがたい。

話にきりが無くなってしまうので視点を少々変える。リトル・マーメイドはご存知の通りフィクションである。どの時代のどの地域を舞台にした話なのか、明記されている訳ではない。従って、仮にカリブ海サントメ・プリンシペあたりが舞台ならば、黒人の多い世界観であっても頷ける。また人魚という生物そのものも架空の存在であり、そもそも人魚に白人・黒人などといった人種の概念は存在するのか、誰が知りえるのか。架空の世界に対し、無理やり「見た目が白人っぽいからアリエルは白人の人魚だ」と現実世界の枠組みを当て嵌めようとしてしまう鑑賞者側のバイアスこそが、アリエルの配役に対する違和感の正体なのかもしれない。

もっとも、原作であるアンデルセン著の童話「人魚姫」は1837年にデンマークで発表された童話である。それゆえ、19世紀以前のヨーロッパが舞台としてイメージ付いたことは納得できるし、仮にそうならば、当然移民や混血が今ほど進んでいない当時の物語世界における登場人物の多くも白人であるべきだと考えることは自然だろう。だが、童話においても、やはり時代背景がいつでどの地域で起こった話なのか、といったことは明確化されていない。あくまで架空の世界として描かれているのである。「著者がデンマーク人だから、人魚姫の世界はヨーロッパで登場実物は白人だ」という主張は、根拠としては不十分と言えるだろう。

 

違和感その②:人種の異なる姉妹

※写真はイメージです

先ほども述べたように、私自身アリエルの配役に関しては全く違和感を覚えなかった。だが、アリエルのお姉様6人の配役については、正直なところ個人的には引っ掛かりを感じざるを得なかった。

お姉様6人(そしてキャスト自身)はそれぞれ肌の色が異なりネグロイドモンゴロイド、そしてコーカソイドからもインド系イギリス人女優や、ラテンアメリカにルーツを持つイギリス人女優など、バラエティに富んだ配役となっている。人種差別を否定しなるべく中立的な表現を目指すゆえ、多様性に満ちた配役が実現されたということができるだろう。

ここで問題なのは、彼女らがあくまで姉妹だということである。血のつながった姉妹とするならば、彼女らの肌の色がこうも異なるのは、あまりにも不自然ではないだろうか。

7人姉妹はそれぞれ7つの海を見守る役目を負っており、それ故仮に全員が白人だと、白人至上主義的世界観の体現だと捉えられる恐れがあり、制作者としては調子が悪いのかもしれない。そのため不自然なまでの肌の色の違いは許容されるべきなのだろうか。とは言え、やはり違和感を覚えてしまう。

また、7つの海を見守るそれぞれの姉妹は、本作では設定上腹違いの娘なのだ、という可能性についても考えてみた。だがストーリー途中、姉妹間の会話に出てきた「お母さんは人間に殺された」というセリフから察するに、やはり7人姉妹にとってのお母さんはただ一人、と捉える方が自然だと言える。実の姉妹ならば、見た目はある程度似ている必要があるだろう。それにも関わらず、多様な人種で構成された姉妹を観て、物語の整合性よりもポリコレを重視した結果、いわばポリコレのごり押しが行われたことによる結果なのだ、と視聴者が感じてしまうのは決しておかしなことではないだろう。

とは言え違和感①で述べた通り、人魚は架空の生き物であり、彼女らの交配・遺伝システムには我々の常識が通用しないのかもしれない。肌が白い親から肌が黒い子が生まれることは何ら変なことではないのかもしれない。違和感を感じるとは言え、フィクションである以上この点について人間世界の生物学を盾に深く突っ込むことは、野暮と言えるだろう。

違和感その③:多様性に満ちた国民

※写真はイメージです

次に挙げたいのが、物語の舞台となった港町(国)で過ごす多様性に満ちた国民だ。立派な王城と賑やかな城下町こそあるものの、映画内の描写からかなり小さなコミュニティで構成された港町レベルの規模の国が舞台だと察することができる。君主国家ではあるものの世界大国というレベルではなく、あくまで地方の港に栄えた小国のような規模だ。そのような国で、王女含め肌の色が異なる国民が行き交う光景は、やはり異様に感じるところがあり、先述のポリコリのごり押しを想起してしまう。

もちろん、違和感①②で述べたのと同様に、本作の時代背景や舞台となった国・地域が明確化されてないため、18世紀以前のヨーロッパの片田舎では、移民・混血は進んでいなかった、などと突っぱねるのは野暮であると重々承知している。とは言え、ストーリー上触れられる「未知の海」等といったキーワードや、町の建築・雰囲気などから、無意識的に大航海時代のヨーロッパや、その植民地として栄えた中南米カリブ海地域を含む)を想像してしまい、そのイメージが、人種に富んだ国民を当然のものとして素直に受け止めることを邪魔してしまう。人種の坩堝等と評される今日の世界都市のような場所ではないはずなのだ、と決めつけてしまう。

違和感その④:長身ハンサムな白人王子様

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私が個人的に最も強烈な違和感を抱いたのは、王子である。いや、王子そのものというよりも、これまで述べてきたポリコリのごり押しと、作品内で提示された王子像の間の矛盾こそが違和感の正体だと言ったほうが正確だろうか。

本作のディズニープリンスは、ジョナ・ハウアー=キングが務めるエリック王子。長身で男らしい体つき(ジョナ本人も187cmの高身長)、そして白い肌と甘いマスクが爽やかなハンサム王子だ。そんな王子像に対し、正直なところ映画鑑賞中は、まったくもって違和感を覚えなかった。むしろ、ディズニープリンスはこうでなきゃ、とすら感じた。やはり長身イケメンは正義だ

だが、よくよく考えるとどうだろう。アリエルや6人の姉、バラエティ豊かな国民には、多様性を重んじたチャレンジングな配役がなされているのにもかかわらず、王子はステレオティピカルな白人王子を踏襲しているのだ。私自身、この矛盾・不公平さに、映画を観終わり30分程経ってやっと気づいた。

肌の黒いアリエルが登場する世界観なら、肌が黒い王子もあり得ただろう。背が低い王子がいても不思議ではない。イケメンでなければ、アリエルはエリック王子に惚れなかったのか?いや、そんな夢の無い話で合ってはならないはずだ。

誤解を生まないよう述べるならば、私自身上演中はジョナ・ハウアー=キングの男らしい姿に魅了されたし、王子そのものは素敵なキャラクターだと感じた。だが、どうしても本作の世界全体を俯瞰したときに、王子に埋め込まれたステレオタイプを無視することができなかった。作品を通じて、徹底的なまでに中立的な表現を尽くしていながら、なぜ王子は白人でなければならなかったのか。この中途半端なポリコレ姿勢に、違和感の正体があるのではないか。

違和感その⑤:損な役回りのタコとウツボ

※写真はイメージです

 

加えて、海の仲間たちについても言及したい。水中生物について関心がない層からすると単なるあら捜しだと冷笑されてしまうかもしれないが、ダイバーとしても活動する私自身、彼らの役回りについてももっと思慮深い姿勢を示すことができたのではないか、というのが本音である。

メリッサ・マーカシー演じる悪の親玉アースラーは下半身がタコの形をした人魚の魔女、そしてその子分として狡猾に動き回るウツボ兄弟(フロットサムとジェットサム)。89年のオリジナル版と同じく、海の中のヒール役とも言えるタコとウツボが本作の悪役を担わされたのだ。

タコは古来から見た目の不気味さ故、欧米圏でDevilfish(悪魔の魚)と呼ばれきた歴史があり、他のフィクション作品でも、クラーケン等といった海の怪物として暴れまわる姿が印象的だ。ウツボは、その凶悪な顔つきと、人の指を嚙みちぎると評されるあごの力、そして種によっては毒を持っていることから、危険視され忌み嫌われてきた。

とはいえ、タコもウツボも、本来は人間に対して危害を加えない生物。例えばウツボは本来、人間が不必要に近づいたり怖がらせたりしない限り攻撃をしない温厚な生物。それどころか、元々臆病な性格であることでも知られ、それ故人間が近づくと口を開けて威嚇する(この時の表情の怖さが、ウツボの凶悪なイメージに結びついていると言っても過言ではない)。中には人懐っこい個体も居り、ダイビング中に顔見知りになると一緒に海の中をついて来るような例も見られる。本来は非常にかわいらしい生き物なのである。

人種的中立性には最大限のケアを払いながらも、水中生物においては一部の生物に対する既存のステレオティピカルなイメージを助長させるような表現がされている点に関しては、無頓着だと感じざるを得ない。今世紀においては、人種差別問題と同様に動物愛護問題もセンシティブな話題であるはずだ。アリエル周辺でのチャレンジング配役に満足をし、それ以外の部分での中立性の確保が疎かになっていないか。そのような、一見思慮不足ともとれるようなポリコレの中途半端さを感じてしまうのだ。

半歩先を行ったリトル・マーメイド

ここまで、私が感じた違和感について色々と書き連ねてみたが、決して制作者の手抜きによるものではないと私は信じている。これらの違和感は、ある種の妥協、バランス取り、そして視聴者に対する思いやりが招いた、意図的な中途半端さに起因するものだ、と仮説を立てたい。

アリエルが黒人なんだから、例えば王子はアジア人で、悪役はエンゼルフィッシュにしたらいい、そのほうが既存のステレオタイプを打破して、より公平で多様性に満ちた世界が描けるはずだ。極端な話、そう言えるかもしれない。だが、そんな映画を作ったとして、一体誰が見てくれて、誰に対してメッセージを届けることができるだろうか。

いくら画期的なアイデアであったとしても、あまりに突飛だと人々は付いてこない。そのことを制作陣も十分に理解しているはずだ。たった一作の映画で、世の中に蔓延る偏見を一掃することはできない。ならば、せめて問題提起となるような作品を作りたい、という想いがあったのではないか。それ故に、リトル・マーメイドは世界の一歩先ではなく、戦略的に半歩先を行くことに留まった、と私は捉えた。

黒人のアリエルに只でさえ皆が困惑している。ましてや、王子がアジア人で悪役がエンゼルフィッシュとなると、頭にストーリーが全く入って来なくなってしまうだろう。リトル・マーメイドは、黒人女優をアリエルに、という大いなる挑戦を実行するにあたり、その他の点で可能な限りオリジナルの原型を留めるよう舵を取ったのではないか。アリエルが黒人となることで、既存ファンにある種のショックを与えたことだろう。だからこそ、ストーリーや世界観全体としては、あくまでファンの心に寄り添い、過去作のイメージをなるべく大切にしながら、ファンの期待に応じる。そういうバランス取りによって映画制作が行われた結果、副産物として節々の矛盾=違和感が生じたのだと考えた。

実際に、本作はアリエル周辺の配役以外の点については、これでもかってくらい原作リスペクトである。オリジナル「リトル・マーメイド」と比べると約50分もの尺の違いがあることから全体的なテンポ感こそ異なっているものの、挿入歌やちょっとした小ボケ、カメラワークまでオリジナルを忠実に再現している。工夫とリスペクトに満ちたカットに懐かしさを覚えた視聴者も多いことだろう。

少なくとも、今回リトル・マーメイドが成した実績は偉大である。無意識的に白人だとイメージづけられていたキャラクターを黒人女優が演じ、結果素晴らしい作品が作られた。この大きな一歩を皮切りに、今後はより多様な人種の役者がスクリーンで活躍することになるだろう。数年、数十年掛け、少しずつ多様性、人種的中立性を重んじた作品が増えることで、視聴者もパラダイムシフトを経験し、肌の色を気にするなく映画鑑賞を行う日が来ることになるのではないか。そしていつの日か、(望む・望まないにかかわらず)リトル・マーメイドの世界にアジア人のエリック王子が現れたとしても、誰一人違和感を覚えることなく楽しめる時代が来るのかもしれない。

最後に

今回このような記事を執筆したのには、もう一つ小さな理由がある。それは、実写「リトル・マーメイド」の水中世界がモルディブの真っ青な海を想起させ、一旅行ブロガーとして居ても立ってもいられなくなったからだ。

本ブログは、そもそも旅行情報を発信するためのブログで、映画レビューブログではない。だけどあまりにもリトル・マーメイドの世界が美しく、その臨場感ゆえ、まるで疑似旅行をしているような気分になってしまった。リトル・マーメイドの世界の水中生物は皆リアルで、色味も鮮やかで、そしてどことなくくすんだ色合いで・・・多少のフィクションらしさは勿論あるものの、ほとんど私自身がモルディブの海の中で見た景色そのものであった。海水面近くにぷつぷつと浮かぶプランクトンの質感まで忠実に再現されている海の描写に興奮をしたダイバーはきっと多いのではないだろうか。

最後に、リトル・マーメイドで水中世界に興味を持った方がいたのならば、是非何らかの機会にモルディブ旅行に挑戦してみて頂きたい。スクリーンで見た景色が実際に体の周りを360度取り囲み、映画の中のアリエルのように魚たちと泳ぐ、そんな体験を是非一度味わってみて欲しい。魅力的な海の世界が、きっとこう感じさせるはず。「声を失ってでも、尾ひれが欲しい」と。

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